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東京地方裁判所 平成2年(ワ)2242号 判決

主文

1  原告の被告らに対する請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

理由

一  先に摘示した当事者間の争いのない事実に、《証拠略》を併せ判断すると、先ず、全般的な事実経過として、次のような事実を認めることができる。

1  訴外田中は、昭和四七年頃、TAPの名称で家庭教師派遣業を営み、被告霜山及び同小田は、その下で家庭教師として稼働していたものであるが、昭和四九年頃、訴外田中が業態を学習塾の経営に変更したのに伴い、その講師として勤務するようになつた。

右学習塾は、被告霜山及び同小田が講師を務めるほか、二人のアルバイトを擁する程度の小規模のもので、創業当時から訴外田中において経理、経営を担当し、被告霜山及び同小田においてそれまでに家庭教師あるいは他の塾の講師として蓄積してきた教材、資料、ノウハウ等を用いて教育にあたつていた。しかし、被告霜山及び同小田は、その後、右学習塾において復習を中心とした独自の授業システムを案出し、その後に右学習塾に入つた講師らもこれを採用して、次第にそれがTAP全体の授業方法として確立していつた。この授業方法は、高い教育効果を上げ、良好な実績を挙げたために、口コミなどによつて入校を希望する生徒が加速度的に増加していつた。

2  このようにして、右学習塾の経営は順調に推移したため、訴外田中は、昭和五四年頃にはこれを会社組織に変更することとして、旧中教研を設立したうえ、これを小学部と中学部とに分離し、被告霜山が小学部を総括し、被告小田が中学部を総括するようになつた。そして、旧中教研の経営するTAPは、次第に規模を拡大して、難関校といわれる学校に多数の生徒を合格させるようになつた。

そして、旧中教研が五社に分社した後の平成元年度には、中教研及びタップルの両社で東京都中央区八丁堀、東京都三鷹市、横浜市及び千葉県市川市にそれぞれ複数の教室を有し、アルバイト、パートタイムの非常勤講師のほかに、専任講師として中教研が七〇名弱、タップルが六〇名前後を擁して、首都圏の学習塾業界では五指に入ると言われるまでになつた。

このようなTAPの発展に伴い、被告霜山及び同小田は、受験界では成功を収めた人物として評価され、著名になつていつた。

3  訴外田中は、昭和六三年二月頃、旧中教研を五社に分社したが、自らはタップル又は中教研の役員に就任することなく、持株会社の有限会社学養を設立して自己とその家族でその全株式を所有し、有限会社学養の代表取締役に就任して、中教研及びタップルの株式の各七〇パーセントを有限会社学養名義で所有し、「理事長」と称して実質的にタップル及び中教研のオーナーの立場にあつた。そして、小学生の教育を担当する中教研の代表取締役には被告霜山が、取締役には被告吉原及び同奥田が就任し、中学生の教育を担当するタップルの代表取締役には被告小田が、取締役には被告中山及び同高橋が就任した。しかし、訴外田中は、中教研及びタップルの代表取締役印を自分で管理するなどして、事実上その経営を掌握して、その経理や財務に関する書類一切を公開せず、他方、被告霜山及び同小田は、その経営に関わることはほとんどなかつた。

4  このような状況の下において、被告霜山は、訴外田中が不必要な不動産投資を行い、多額の借入金を起こしているとか、旧中教研を分社した際に訴外田中が家族を含めて多額の退職金を取得するなどして会社を私物化しているとか、分社された五社のうち収益部門は中教研及びタップルだけであるにもかかわらず、これらの会社には利益を残さず、右二社が上げた利益を他社が吸い上げる経理処理がなされているなどとの情報を耳にして、自分の関知しない経営によつて経営責任を負わされることをおそれ、訴外田中に対して、経理を公開するなどして公正な会社運営を行うように再三にわたつて要請したが、改善されなかつたため、平成元年二月一五日頃、辞表を提出して、同年三月から他の学習塾において講師として稼動するようになつた。

しかし、訴外田中は、平成元年三月一四日頃、他の被告らの働きかけによつて、どのような条件でも受入れるからとして、被告霜山に復職を申し入れ、これに対して、被告霜山は、他の被告らの支持を得、復職の条件として、訴外田中及びその家族の実質的な持株比率を五〇パーセントにまで引き下げて、その他の分については、従業員が引き取ることなどを提案した。訴外田中は、一旦はこれに応じたものの、同月一七日頃になつて、全部の株式を手放す代わりに、創業者利益として会社所有のビル及びマンションを取得するほか、毎月数百万円の給料の支払いを求める案を提案し、被告霜山も、これに応じて復職することとした。

ところが、訴外田中は、平成元年四月一九日頃、一転して株式の譲渡についての前記合意を撤回し、被告霜山及びこれと同調していたその余の被告らと全面的に対決する姿勢を見せた。被告らは、同月二七日頃から弁護士を交えて対策を協議し、新株を発行して第三者割当てを行うことを計画していたところ、訴外田中は、同年五月一日頃、被告霜山及び同小田を解任するための株主総会の招集請求を内容証明郵便で送付し、同月七日及び八日には全従業員を集めて被告霜山及び同小田を非難するなどし、さらに、同月一二日頃には、被告吉原、同奥田、同高橋及び同中山の解任のための株主総会の招集請求を行つた。その結果、被告らと訴外田中との紛議は、中教研及びタップルの従業員にも知れ渡り、また、それによつて生徒の間にも動揺が広がつたため、被告らは、しばしば状況や経過についての質問を受けるようになつて、その都度説明を余儀なくされるなどした。

5  被告らのうち取締役であつた者は、平成元年五月六日、中教研及びタップルの各取締役会を開催し、訴外有限会社学養の持株比率の過半数割れを図るべく、被告らの妻及び被告らのうち取締役でない者を割当先とし、同月二三日を払込日とする第三者割当増資の方法による新株発行の決議を行つたが、これを知つた訴外田中は、新株発行差止めの仮処分申請を行い、同月一九日、その発令を得た。

また、訴外田中は前記仮処分申請と併せて臨時株主総会招集の許可を申し立てており、平成元年五月二九日には、その許可決定が出されたので、被告霜山は、いち早く退任を表明し、また、他の被告らも、TAPでこれ以上働くのは無理であると判断して、中教研又はタップルからの退任ないし退職の意思を固めた。そこで、被告らは、代理人を通じて交渉を開始し、即時退任ないし退職を希望したが、既に父兄面談の予定が入つていて、訴外田中が被告らに引継ぎを行つたうえで辞めるように求めたため、被告らは、訴外田中との間において、被告らが保有している中教研又はタップルの株式は訴外田中側に譲渡すること、被告霜山は同年六月三日に、その他の被告らは同月一四日にそれぞれ退任ないし退職することとし、それまで引継業務として父兄面談などを行うことを合意した。

そして、被告霜山は、退任後直ちに他の学習塾の講師として稼働し始めたが、TAPに在籍した生徒のうち約三〇人は、これを知つて、被告霜山の教える右学習塾に通い始めた。中教研及びタップルの従業員らあるいはTAPの生徒の父兄らは、平成元年六月初旬頃、被告らが退任ないし退職することを知つて、不安を抱き、被告らに事情を聞くなどしたが、被告らは、これに対して、当時の状況の経過説明をし、辞めた後は学習塾でもやるよりほかないとの回答をするなどした。また、被告小田及び同高橋は、退任前日に父兄会を開催して、退任ないし退職のあいさつ及び後任者の紹介を行うなどした。

このようにして、被告霜山を除くその他の被告らは、訴外田中との合意どおり、同月一四日まで勤務した。

6  被告霜山を除くその他の被告らは、退任ないし退職後の平成元年六月一五日、先に退任した被告霜山を訪ねて、将来の方針について協議するなどしたが、その結果、被告らは、被告ら全員で新たに学習塾を開設することを合意した。そして、被告らは、それぞれ退職金を出資して学習塾を経営する株式会社を設立することとし、同月二六日にジーニアス研究所及びサピエンス研究所の設立登記をして、これを設立した。

そして、被告らは、急遽、手分けをして賃貸物件を探すなどして、東京都中央区日本橋人形町、東京都杉並区上荻及び東京都三鷹市に差し当たつての学習塾の教室用の建物を確保し、内装工事等も半ばにして、同年七月三日、これらの教室において、小学生及び中学生を対象とした学習塾を開校した。

また、被告らは、右の頃、東京都内の学習塾、有名小・中学校付近のほか、TAPの教室所在地付近においても、新しく開設した学習塾の宣伝ビラを配布するなどして、生徒の募集を行つた。

7  被告らの右のような動きに合わせて、中教研及びタップルにおいては、各数十名いた専任講師のうちのそれぞれ一〇名ないし数十名及びアルバイト各一〇名が退職し、その大部分がジーニアス研究所又はサピエンス研究所に入社した。

また、TAPに在籍した生徒には、平成元年六月以降に次第に退校する者が増加し、最終的には概ね原告主張のとおりの数の生徒が退校して、その多くは、ジーニアス研究所又はサピエンス研究所の経営するSAPIXに入校した。

二  次に、以上のような全般的な事実経過を前提として、右にみたほか、被告らがさらに原告の主張するようなTAPに在籍する生徒ら及び従業員の引抜行為等をしたものであるかどうかについて検討する。

1  先ず、原告は、被告らがその退任ないし退職の相当以前から新たに開設する学習塾の具体的な計画を有していて、TAPに在籍した生徒ら又はその父兄らに対して、TAPを退校して新たに開設する学習塾に移籍するように種々の働きかけをしたかのような主張をし、証人廣田誠及び同米島康晴は、一部これに符合する証言をするけれども、前記のとおり、被告らが新たに株式会社を設立して全員で学習塾を開設することにして、これを具体化していつたのは、平成元年六月一五日以降のことであり、被告霜山に至つては、退任後既に他の学習塾の講師として移動し始めていたぐらいであつて、それ以前の段階においては、被告らに格別の具体的な計画があつた訳ではなく、《証拠略》によれば、被告らは、実際にも、先に認定したとおり、父兄らからの質問に答える形で、退任ないし退職するに至つた経緯について説明し、TAPを辞めた後はどこかで学習塾でもやるほかはないと回答したり、あるいは、被告小田がその退任の前日の最後の授業において生徒らに自分が退任する旨を話したことがある程度にとどまることが認められ、右のような程度又は範囲を超えて、被告らが授業中、個人面談又はその他の機会に生徒や父兄らに対して積極的に新たに開設する学習塾の宣伝を行つたとか、被告らが退任ないし退職の前後を通じてTAPから持ち出した生徒名簿等を利用してTAPに在籍する生徒や父兄らに積極的に電話をかけて移籍を促すようなことをしたことを認めるに足りる証拠はない。

2  ジーニアス研究所及びサピエンス研究所の運営するSAPIXにおいては、TAPからの移籍者に対して入学金を免除したことがあることは、当事者間に争いがないところであるけれども、《証拠略》によれば、SAPIXにおいては、当初、TAPからの移籍者についても、他の入校者と同額の入学金を徴収していたが、一部の父兄から不満が寄せられたために、生徒らには関係のない被告らと訴外田中との間の紛議によつて生徒らに負担を与える結果となるのは好ましくないとの配慮から、右のような措置を採ることにしたものであつて、被告らが殊更にTAPに在籍する生徒に対してSAPIXへの移籍を促進することを目的としてそのようにしたものではないことを認めることができる。

3  また、原告は、被告らが中教研又はタップルに在任ないし在職中から右両社に在籍する講師や従業員に対して種々の強引な勧誘行為を行つてその引抜きを図つたと主張し、証人廣田誠及び同米島康晴は、これに沿う証言をするほか、中教研及びタップルの多くの講師や従業員が右両社を退職してその大部分がジーニアス研究所又はサピエンス研究所に入社したことは、先にみたとおりである。

しかしながら、被告らが中教研又はタップルに在任ないし在職中においては新たに株式会社を設立して学習塾を開設することの具体的な計画を持つていた訳のものではないことは、前述のとおりであつて、被告らが新たに開設する学習塾の規模や青写真もなく必要人員の見込みも立たない右の段階において具体的、確定的な講師や従業員の引抜工作を行つたとは考えにくく、かえつて中教研又はタップルを退職してジーニアス研究所又はサピエンス研究所に入社した講師や従業員は、被告らの退任ないし退職に同調して、被告らの積極的な勧誘を待つことなく、自発的に移籍したということも十分にあり得ることであるから、前記証人の証言は直ちに採用することができず、他にはこの点についての原告の主張事実を認めるに足りる証拠はない。

4  最後に、原告の主張するとおり、被告吉原がTAP作成にかかる各種テストをコピーしたこと及び被告立野井が入試合格者リストをコピーしたことは、当事者間に争いがなく、また、《証拠略》によれば、被告霜山は、その退任後の平成元年六月上旬頃、中教研の事務室に保管されていた私物の送付を依頼したところ、送付されてきた荷物の中に中教研の教材が入つていたことを認めることができる。しかしながら、これらは、右被告らが新たに開設する学習塾において利用することを目的としてしたものであるとか、実際にそのような目的のために使用されたことを認めるに足りる証拠はない。

もつとも、《証拠略》によれば、SAPIXがその開設当初に用いていたテキストには、当時TAPにおいて使用されていたテキストに含まれているのと共通の問題が多く含まれていたことは認めることができる。

三  ところで、会社の取締役又は従業員は、その退任後又は雇用関係終了後においては、その一切の法律関係から解放されるのであつて、在任又は在職中に知り得た知識や人間関係等をその後自らの営業活動のために利用することも、それが旧使用者の財産権の目的であるような場合又は法令の定め若しくは当事者間の格別の合意があるような場合を除いては、原則として自由なのであつて、退任ないし退職した者が、旧使用者に雇用されていた地位を利用して、その保有していた顧客、業務ノウハウ等を違法又は不当な方法で奪取したものと評価すべきようなときでない限り、退任ないし退職した者が旧使用者と競業的な事業を開始し営業したとしても、直ちにそれが不法行為を構成することにはならないものと解するのが相当である。

これを本件についてみると、前記のとおり、被告らは、中教研又はタップルを退任ないし退職して、TAPの校舎の所在地と同一通学圏内ともいうべき地域に同一目的の学習塾を開設し、中教研又はタップルを退職した講師や従業員の多数を雇い入れて営業を開始し、TAPに在籍していた生徒らの多数がこれに移籍したものであり、そこで採用された授業方法や教材等もTAPにおけるそれと類似のものであることが窺われるけれども、被告らは、中教研若しくはタップルの講師や従業員又はTAPに在籍した生徒らに対して、その方法又は態様において、単なる転職又は転校の勧誘の域を超え、社会的相当性を逸脱した引抜行為を行つたものとまではいうことはできないこと、TAPにおける授業方法や教材等といつても、もともと被告霜山やその他の被告らが多年の経験に基づいて蓄積してきたひとつの教育観とでもいうべきものであつて、被告らの属人的要素が強く、中教研若しくはタップルの企業秘密に属するものでもなければ、その財産権の目的となつているものでもないこと、また、被告らの退任ないし退職の経緯に照らしても、被告らには、違法又は不当な手段・方法を弄して中教研若しくはタップルの講師や従業員又はTAPに在籍した生徒らを新たに開設する学習塾に引き抜き、これによつて原告に損害を加えようとして、退任ないし退職したなどの積極的な害意を認めることもできないことなどに照らすと、被告らの前記の一連の所為が自由競争の範囲を明らかに逸脱した違法なものであるということはできないものということができる。

四  そうすると、原告の被告らに対する本訴請求はいずれも理由がないから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条の規定を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 村上敬一 裁判官 中山顕裕)

裁判官岡部豪は、差し支えのため、署名、押印することができない。

(裁判長裁判官 村上敬一)

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